2011.12.03 [長年日記]

自己陶酔系つぶやき

人が色々語るを聞くのは好きだが、人が私の事を聞いても面白く無いむしろウザいだろう事は間違いないのでなるべく言わないように心掛けている。それでも振り返ると結構言っているのだから、自制も足りないわけだが。

つまり言いたくないわけでは無くて、むしろ喋りたい。だからこういう誰も聞いていなさげな所で呟いてみるのだ。

それなりにリスペクトしている方が自分の駄文を読んでくれていることに、そりゃもうひっくり返る程驚いた。そんなに気ぃ使わせる程酷い事言ってたのか自分と猛省した。だって閲覧数多くても1000ちょい、平均で300〜500くらいだし。ジャンル的に投稿数多いから読んでないって思うじゃん普通

しかも哲学的なかんじだと。標本数1/1でも、そう思わせる要素があるんだととても興味深かった。最近同人友達居ないんでサンプルには飢えている。どゆこと?どゆこと?と食いつきたかったが流石にうっとうしいわ!と思って自重した。

思うに一つは、自分には分かっている事を説明しない癖があって(職場でも”聞けば知っているのにそれを自分から教えてようとはしない”と言われた事がある)はしょっているつもりは全くないのに結果としてそうなっている、らしい。だから文に込めた意味が分かりにくくなっているのだろう、と思う。

一つには、たまーに自問自答みたいな内容があるから、なのかもしれない。たぶん自分はやたら滅多に高性能なのに何の目的も与えられていない(…という脳内設定の)黒虎に、モラトリアムな自分を重ねているのだ。

人間だって、意味もなく生まれてきて理由もなく死んでいく。子供の頃は普通の家庭なら、生きているだけで家族から存在価値を与えられる。結婚して(しなくても、まあ良いけど)子供が出来れば子供を育てる事が、その存在価値で理由になるんだろう。

だから子供が独立した途端に自らの意義を見失って鬱になる人もいるわけだ。戦争の道具でもなくただ研究の過程で生み出されたアンドロイドというのは、創造主(この場合は所詮ただの開発者だけど)から明確な存在意義を与えられず、人のように生物らしい生命の連鎖に身を委ね、ひとときの、ただ”自分そのもの”を求められるという精神的安寧を得る事も出来ない。

それはなぜ在るのか、どう在ればいいのか…出来はあんなでも、一応そんな事を考えながら書いているわけで。まぁ確かにそういうグダグダした事を考えてウダウダくだを巻くのが哲学と呼ばれる学問だったかもしんない。

でも哲学書もヲタのたしなみとしてニーチェを読んだことがあるくらいだし、川原泉…は哲学にカテゴライズしても良いものか…講義を受けた事もないから実際どんなものかは良く分かっていない。心理学もしかり。

だから、つまり、ド素人なわけで、それが無い頭ひねって書いたものがそういう印象を与えた事が本当に不思議だ。とりあえず考察はしてみたが、いやそうなの?絶対思い違いしてるんだろうなあ。


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